社会派ブログとしての役割を果たすべく、以下の論文を発表する。
イタリア人とウンコの関係に関する一考察
1.本論文の目的
本論文では、イタリア語の名詞"merda(メルダ)(うんこ)"を対象に、イタリア人と「ウンコ」の間の関係性を明らかにし、クソみたいな記事をネットにクソばらまくことを目的とする*1。
2.先行研究と問題設定
管見の限り、イタリア人とウンコの間の関係性を捉えようとした研究は以下のものを除いてほとんど存在しない。クソ存在しない。
本節ではクソみたいな先行研究を概観する。クソ概観した後、先行研究では扱われなかった「ウンコ」を対象に、イタリア人の本質に「ウンコ」からクソ迫ることを試みるための問題設定を行う。
2.1 先行研究の概観
先行研究では動詞"cacare(カカーレ)(ウンコをする)"の用法についてクソみたいな分析がなされている。概観にクソ値しない。
2.2 本論文の問題設定
本稿では、先行研究のクソみたいな成果を踏まえて、名詞"merda(メルダ)(うんこ)"に着目し、その用法の分析を行う。なお、めんどくさいという理由で、"merda"は以下「メルダ」と表記する。
3.「メルダ」の用法
「メルダ」には多種多様な用法がある。本節では、「メルダ」の用法を、便宜的に⑴感動詞用法、⑵強調用法、⑶イディオムの三つにクソ分ける*2
3.1 感動詞的用法
本稿では感動詞を「相手に対する感情を表す」非分析的な形式とする。「メルダ」は、日本語で「ウンコ」であり、「クソ」でもある。日本語でも「クソ!」と感情表現をするように、イタリア語でも同様の感動詞的用法がクソ見られる。
具体的には、サッカーの試合を観戦中、応援しているチームがミスしたときに、「メエエエエエルダアアアアア」と叫んだり、相手チームを貶める時に「ユーベ メェェェェェェルダァァァァァ*3」 と相手チームの名前と一緒に皆で合唱したりと様々な場面でクソ使用される。
3.2 強調用法
「メルダ」には事柄や事態の程度の甚だしさを強調する程度用法も存在する。日本語でも副詞的用法の「クソムカつく」に見られるように、ネガティブな表現で「クソ」を使うことがあるが、「メルダ」にも同様の用法があり、これらは "di merda(ディ メルダ)" という形式でクソ用いる。
(1) Sei uno stronzo di merda. 「お前クソ野郎だな」
上記の(1)は、「セイ ウノ ストロンツォ ディ メルダ」と発音する。"Sei"は二人称単数形、"stronzo"は「クソ野郎」で、「お前クソクソ野郎だな」という意味を持つ。ここでの "di merda" の汎用性は高く、なんでもとりあえず"di merda"をつけておけば、ネガティブな意味での強調を相手にクソ示すことができる。当該表現は超重要フレーズとしてイタリア人の会話に3分に一回は出現することがクソ確認されている。
3.3 イディオム用法
本節では、「メルダ」を用いたイディオム(慣用句)表現を概観する。まず以下の例をクソ見られたい。
(2) Sei un pezzo di merda. 「お前はウンコのかけらだ」
「人間はウンコの欠片」ではない。これはイディオム用法と呼ぶよりはメタファー的用法と呼ぶべきかもしれないが、本稿ではここに分類しておく。(2)は最上級の侮蔑表現であり、使う場面が限られるとはいえ、イタリア語会話において欠かすことができない表現の一つである。
次に以下の例を見られたい。イタリア人がいかに「ウンコ」に染まっているかがクソ示される例である。
(3) essere con la merda fino al collo
エッセレ コン ラ メルダ フィーノ アル コッロ
"essere"はbe動詞「〜だ」、"con la merda" は「ウンコと一緒」、"fino al collo" は「首まで」である。したがって、日本語の直訳としては「首までウンコに浸かっている」ということになる。意味するところは「大きな問題を抱えている」である*4。もはや意味不明である。
4.イタリア人とウンコ
先行研究でもすでに示されているように、イタリア語には「ウンコ」が溢れている。イタリア人=イタリア語を話す人、イタリア語を話す人=ウンコを多用する人、イタリア人=ウンコを多用する人という完璧な三段論法的論証がここには成り立つのである。したがって、本稿では、「イタリア人」は「ウンコ」であると主張する*5。
5.おわりに
本稿では、「メルダ」を対象に、その用法及びイタリア人とウンコの間の関係性を明らかにした。結果、イタリア人はウンコであると論じた。イタリア人はウンコが好きなので、彼らと会話する際によく出てくる「ウンコ」を使いこなすことで、相手との距離を縮めることができる。したがって、本稿での成果は、「メルダ」の用法、それとイタリア人との関係を明らかにすることに寄与するだけでなく、イタリア語教育に役立つ可能性も秘めている。今後の発展可能性としては、そのあたりにクソ着目しながら分析を試みるということが考えられる。
おまけ